昭和四十八年十二月十七日 朝の御理解
御神誡 一、神国に生まれて神と皇上との大恩を知らぬこと
    一、天の恩を知りて、地の恩を知らぬこと
 金光様の御信心を頂きますと、恩に報いる気持ち又はその御恩に如何に報いるか、又応えるか、教えられます。だからそれに応える信心が出来なければいけません。
 お話を頂いて、天の恩を聞かせてもらい、地の恩を聞かせてもらう、いうなら、天地の大徳というか、恩をわからせてもらう、わかっただけではなくて、それを自分の心から感じられる。天地の大恩を感じられる。
 おかげを頂くためにそれに報いる生活、それにどう応えさせてもらうかという事を考え続けさせて頂く生活を信心生活という。
 どういう信心すれはおかげが頂けるじゃろうかという事を思い続けるというのではなくて、それにどう応えさせて頂いたらよいか、どう報いるが本当かと。
 神国に生まれ、神と皇上との大恩を知らぬことと、これは日本だけが神国ではありません。私は世界中が神国だと思う。
 神様の御支配下さる、神様のお守り下さる、ですからその天地を守って下さる、私共の住む地球上と申しますか、いうなら、世界中を大きな働きで御守護下さることが例えばわかってまいりましたら、それに応えるということ、わかる信心にならにゃいけません。私はこう、神と皇上との大恩とか、天の恩とか、地の恩とか、恩ということまあ、これは一の恩というてもよい、社会の恩というてもよい。又は親先生の恩というてもよい、又は師匠の恩というてもよい。その恩を知ってその恩に報いる生活。 これを本当に頂けれるということが、日々、更な、又は日々有難い生活が出来る事だと思います。
 例えば、南天という木がありますね。どこも便所の横に植えます。それに赤い実がいっぱいそれに稔ります。しかも便所の脇というのですから、余りよいところではありません。いうなら、臭いところです。いわゆる恵まれないところにあるわけです。 それでもあの南天の葉というものは、毒消しになると昔から言われとります。
 お饅頭やらね、昔はせり箱にやら、重箱にやら詰めますと南天の葉を、あれは南天の葉は、もし毒があるもんだったら、変色すると言われとります。
 まあ、本当か嘘か知りませんけれども、いうならば、便所の脇にあるものをわざわざ持ってこんでもよいだろうけれども、便所の横にある、普通南天というのはそうです。いうなら、毒消しすると言われる程しの木である。
 南天の木で作ったお箸は長生きをするという。南天の箸はそういう高貴な木というかそういうふうに言われとります。
 ならこれが又、冬の雪なんかがかかりますと、雪がこういっぱい、南天の葉の上に積もります。青い葉が蔭から真っ赤な赤い実が見えていま風情なんて、もう実に素晴らしい。そういう例えば、素晴らしいものを持っておる。
 そこでなら、私達がです、それこそ便所の恵まれない境遇とでも申しましょうか、恵まれない、いうならば、縁の下の力持ち的な、存在であるといたしましょうか。
 例えば雪の真っ白い、綿帽子を被ったような時でもじっとそれを堪え忍だけでなくて、むしろそこに一つの風情が出てくる。
 私はそういうおかげを頂くことはです、信心をさせて頂く者は、とにかく三代金光様の御言葉じゃないですけれども、信心は辛抱することが一番大切でござまますと、まず辛抱力を作るという、又は恵まれない境遇それは、便所の横にあるような、そういうようなところにおるのでも、そこに不足を言わず、不平を言わず、むしろそれを毒消しにしたり、長生きの基をつくったりするような働きをする。そういう私は信心を身につけて行くうちにです、わからせてもらう天の恩であり、地の恩でなければならんと思うのじゃないかと思うです。
 又は神と皇上との大恩でなけれはならんと思うです。教祖の神様でもはじめから、例えば実意丁寧の権化のような御生活をなされ、そういう人柄でおありになった、それが、一度神様からそのような御教えを頂かれる。そこから私は天の恩を感じ、地の恩を感じ、社会の恩を感じ、いわゆる神と皇上との大恩がわかってきたとき、本当の意味に於いての神恩奉謝の生活というものが、いうなら、実意の生活が出来ると思うです。只、そういう辛抱もなからなければ、又は自分の不幸せをかこってばかりおるようでは、生き方から、天恩地恩を聞いても、自分のものになりにくい、なれない。 私はその恩ということでもです、話を聞けば成程と、天恩地恩を知ることが出来るでしょう。社会の恩を知ることができるでしょう。この世は神国だと。
 だからそういう意味で成程、この地球上の人間が全部天地の親神様の御恩恵に浴しておるという、いや人間だけではない全部が、神様の御守護の中にあるんだとわかっただけではです、それはいうならば、何にもなりません。
 それが実感として恩を感じて、恩に報いなけれはおられない程しの心、その心を有難いという心なんです。
 私は有難いというのは、恩に報いる心だと思いますね。私は何かをもろうたから有難い言うのはあれは嬉しいんだと思うです。恩に報いるというのはです、私は有難いいう心は恩に報いようと思う、報いなけれはおられないという心、これが有難いということ。だから、そういうおかげをいうなら、本当の有難さ、それを真に有難いと教祖はおっしゃっている。
 本当の有難さというもの、そのおかげに、その心におかげがあると教えておられる そこで私共がです、そうしなけれはおられない、恩に報いなければおられない、心が有難いという心であるならば、その有難い心を求めるということが必要なのです。 その為にはです、現在自分の置かれている地位と申しますか、場というものが、よしそれが便所の脇におるような自分であってもです、いうなら、貧乏くじ引いているような自分であってもです、そこんところを辛抱しぬかせて頂いて、むしろそれに、長生きの基になるような、又は毒消しをするような、働きをですさせて頂く。
 よしそこに雪が降り積もってもです、それで私は、兵口垂れることなくむしろですそのいうならば、美しさというか、その風情というようなものが、自分の周囲に感じさせるような、信心生活。いうならば、信心には辛抱することが一番大切でございます。しかもそのように、長生きの基になるような、毒消しの基になるような、そういう働きをさせて頂きながらです、自分の境遇に喜びを見出させてもらう信心を頂いてそういう、いうならば実意丁寧な生き方をさせて頂いて、そして天恩を知らせてもらい、地恩を知らせてもらう。
 神と皇上との大恩をわからせてもらう。そこからです、教祖さまじゃないですけれども、例えは普通の上納米が、十俵でよいというようなときであっても、今年はよく出来たんで十一俵納めなければおられないという心が生またわけです。
 だから問題は実意丁寧な、いわゆる神信心には信心辛抱することが一番大切でございますというようなです、まずは身につけること、そういう生き方をさせて頂きながら、天恩を聞かせてもらい、地恩を悟らせてもらう。
 そこからです、それに報いる実感として、報いなければおられない。今日目ざましのおかげ頂いたことも有難い。手が動いとる、足が動いとることも、本当に神様のおかげという、私はおかげの心というものが生まれてくる。
 何か自分に都合の良かことになってきた、何か思いもかけないものを頂いた。本当に有難かったというけれども、それは真に有難いというものではない。いうならば、嬉しいのである。真に有難いというのは、今日申しましたようなところに心を置かしてもろうて、神恩に、いうならば地の恩、又は神と皇上との大恩をわからせてもろうて、いよいよ神恩奉謝の心、その心、真に有難いという心。
 神の大恩をしれば、子孫も続き、身代も出来、一年勝りのおかげを受けられるとおおせられる意味がわかるような気が致します。
 只、実意丁寧な生き方をしないで、天恩地恩を聞いたところで、そういうならば、神の大恩が、天地の大恩が、本当心の底からわかる、実感的にわかるということにはなってこないと思う。
 教祖の神様を私共は、神習わしてもらう生き方が金光様の御信心です。
 教祖様とてはじめから、天恩地恩を知っておられたわけではなかろう。神の国、神と皇上との大恩などを本当にわかっとったわけではなかろう。けれども、実意丁寧な生活、実意丁寧な生き方からです、そこから天地の親神様からのお知らせを受けられて、天恩地恩、例えば、ここんところ聞かれたところから、それと一体とななって、本当の神恩奉謝、実意丁寧な信心生活がお出来になったと思いますね。
                            どうぞ。